ノースロップ・グラマン  F−14 トムキャット

 戦闘機について比較的無知な人でも映画「トップガン」を知っている人は割と多いだろう。トム・クルーズ扮する「マーヴェリック」の愛機は他ならぬこのF−14トムキャットであった。
 映画の影響も大きかった上に、日本の厚木基地にもVF−154(第154戦闘飛行隊)ブラック・ナイツ、VF−21(第21戦闘飛行隊)フリーランサーズの所属機として配備されていた為、日本人にも非常にファンが多い機体となっている。

F6D-1ミサイリアー計画は1958年12月5日に海軍との契約に至った。
F3Dスカイナイトをベースとした機体で機動性については全く念頭に置かれていない。代わりにレーダーは超高性能のAPQ-81で200kmを超える探索能力と24目標の追跡能力、そしてうち6目標を攻撃可能とした。搭載される6発の空対空ミサイルXAAM-M-10イーグルは最大速度はマッハ4以上、最大射程も160km以上を誇るが、切り離し式のロケットブースターを使用するというシステムでブースターと本体を組み合わせた重量はAIM-54と比べても100キロ以上重いものとなった。
機体サイズはやはり大型で、APQ-81レーダーはディッシュサイズだけで1.22mもあり、翼幅は21.04mにもなった。
つまるところ、この野暮ったくばかでかいF6DはF3Dの拡張版でしかなく、TFXへの統合化が検討されていた為1961年4月25日には計画がキャンセルされた。

 F−14はVFX(海軍次期戦闘機)計画によってF−4ファントムUの後継機として開発された機体であるが、F−14が選定されるまでの間にはF6Dミサイリアー計画、そして空軍との戦闘機一本化策としてTFX(F−111B)が次期主力戦闘機として挙がっていた。この計画はどちらもキャンセルとされたわけだが、F−111Bは9機が製造され試験まで行っていたにもかかわらずとても海軍の要求を満たせる内容のものではなかった。
 F−111Bの機体重量の要求値は24.75tであったが初号機の重量は実に35.1tにも達しており、世界初のアフターバーナー付きターボファンエンジンTF30−P1についてはコンプレッサー・ストールなどの問題が重なった。機体重量の軽減化は試みられたものの海軍の要求レベルには全く足りず、またパイロンと搭載される武装は可変翼の動きに関わらず常に機体と平行でないと空気抵抗が著しく増加してしまうため複雑な構造の「回転式パイロン」が必要となり重量増加は歯止めが効かなくなっていた。実運用は不可能と判断され、配備を目前にした1968年7月になってF−111Bはキャンセルされた。しかし、このF−111Bに対し海軍が要求していた内容を見ると”いかにも”重量増加を招く要因があり、並列複座、カプセル式の脱出システム、ウエポンベイの搭載といったところがそれに当たる。
 とにかく、海軍は軽量化不可能となったこの重い戦闘機のキャンセルを歓迎し、キャンセル直前の1968年6月21日にはVFXの提案要求書をグラマン、ジェネラルダイナミックス、LTV、マクドネル・ダグラス、ノースアメリカンの5社に対し発出していた。VFXの要求の主要な点は以下の通りである。
●乗員2名のタンデム配置。
●TF30ターボファンエンジンを2基搭載。
●長距離レーダーとそれに連動する火器管制システムの搭載。
●長距離空対空ミサイル(AIM−54)6発+短距離空対空ミサイル(AIM−9)4発+機関砲(M61A1)が搭載可能。
●中距離空対空ミサイル(AIM−7)6発+短距離空対空ミサイル(AIM−9)4発+機関砲(M61A1)が搭載可能。
●空対地攻撃能力を有する。
●高いECM能力を有する。
●全ての兵装を搭載し、かつ最小の燃料で着艦または着陸が可能。

NASAに引き渡された12号機(157991)。
1号機の喪失により飛行試験プログラムに変更が必要になったグラマンは生産ライン上の当該機を突貫工事で完成させその代わりとした。1971年8月31日に初飛行、9月には飛行試験に投入された。こうした事情から機体にはプロトタイプ1Xの名が与えられ尾翼にも「1」のマーキングが施されていた。
その後、改造が施こされたこの機体は単座仕様となり、79年8月にNASAドライデン航空機研究所に引き渡され212回の飛行試験を実施、85年9月には海軍へ返却されたが90年9月30日に事故により失われた。

 艦隊防空戦闘機というカテゴリを弱体化させない為に新規のVFX開発は急を要する必要があった。グラマンはVFX案対しG−303と呼ばれるモデルを提出、1969年1月14日にはこれがF−14として採用決定となり、2月3日には先行生産型12機の発注が行われたがこの採用契約では469機が24億2600万ドルで海軍に引き渡される事となった。
 G−303はF−111Bにあった長射程空対空ミサイル、それを扱う火器管制システム、そしてTF30ターボファンエンジンを引き継いでいた為か開発ピッチは異常に早く、12機作られた先行量産型YF−14Aの初飛行は1970年12月21日と計画採用から初飛行までに2年を要していない。
 ただ、F−14の開発がこの2年間に集約されているのかと言えばそうでもない。グラマンはF−111Bが致命的な弱点を改善出来ない事を確信していたのか、1967年10月には海軍に対しF−111Bのシステムをある程度引き継ぎつつ大幅な重量軽減を図った機体案・・・つまりF−14の基本デザイン”303−60”の提出を行っていたのだ。海軍はこの案に飛びついた訳で、実質的には「F−14」という機体に対しVFXというプロジェクトがくっついてきたと言って良く、艦載機の名門グラマンの堅実なプランの前には他社の機体案が敵う筈も無かった。最終的な機体も海軍から提案要求書が発行されるより先行し、1968年1月に原案となるデザイン303−60が提出されていた(もっともそれでも異常な早さの開発であった事は間違い無いのだが)。

 6万種の機体案、6000種の模型による試験により1967年に機体案を提出したグラマンだったが、機体案提出後に303A〜303Gまでの7案を最終プランとして検討し、結果は303EをF−14基本案とした。ただ、この7案の中には可変翼を排除したものや(303F)、レーダーをファントムUと同じAN/AWG−10と同じにしAIM−54の運用能力を持たない簡易型(303G)などもあり、現実味のあるプランは限られていたように思われる。
 F−14の開発と配備は早急かつ失敗が許されなかった為、海軍はメーカーに対し罰則を強いていた。重量超過については45kgにつき44万ドル、整備性は飛行時間1時間当たりに1マンアワーを越えた場合45万ドル、着陸速度は1ノット(1.86km/h)の増加で105万6000ドル、航続距離は10nm(18.6km)減少ごとに100万ドル、加速性は1秒毎に100万ドル、引渡しについては1日送れる毎に5000ドルもの「罰金」を課せた。

 YF−14初号機は初飛行から9日後の1971年12月30日に行われたセカンドフライトで油圧系統のトラブルにより喪失したが、以降の機体が次々と完成した事もあり試験スケジュールにほとんど影響なく、1972年10月には量産型F−14Aの配備が開始され、1973年7月からは実戦部隊への配備が始まる。

 こうして最新鋭機の海軍引渡しに成功したグラマンの経営は大幅に持ち直した・・・と、言いたいところだがそうはいかなかった。少なくともこの米海軍に売り込んだF−14についてはグラマンをむしろ窮地に立たせた。
 一体何故、この雄猫は飼い主であるグラマンを追い込んだのか?その理由は貨幣価値の変動・・・そう、インフレであった。
 F−14のコストは切り詰める限り切り詰めたものであったが、それでも契約時の469機24億2600万ドルという価格は3%のインフレには対応可能できるものであった。しかし、インフレの勢いはこの僅かな余裕を簡単に乗り越えてしまった。F−14の引渡しに当たっては開発費、オプション価格を含めた金額が海軍より8回の分割によって支払われる事となっていた。しかし、インフレの影響は7回目の支払いでようやく多少考慮されただけで機体は赤字の元となっていた。グラマンはこの理不尽な状況を海軍に訴えたが、海軍はこれを無視しあくまで契約どおりの支払いを求めた。しかしグラマンはとうとう取引の中止を盾に価格の引き上げを要求する事になり、海軍は折れて1973年に機体価格の引き上げに応じた。
 結局、生産134号機までグラマンが被った損失は実に2億2000万ドルでその後の機体価格は大幅に引き上げられた。単価当たり730万ドルの機体が1200万ドルにまで上昇したのである。
 しかし、グラマンの経営は簡単には持ち直らなかった。新価格の金額が実際にグラマンに転がり込んでくるのは1975年、その上海外での商戦を得意としていないグラマンにとってF−14のこれ以上の売り込みは望みが薄く銀行からの資金調達は困難となり会社は転覆寸前まで行った。この危機を脱する事が出来たのはイランへのF−14への売り込みが成功した事が大きいがこの詳細については後で述べる。

 ではF−14に投入されているシステムについて掘り下げていこう。

AIM-54フェニックスミサイルとF-14のレーダー、AN/AWG-9は並行して開発されたものであり、両者は共に不可分の関係にある。
米国製空対空ミサイルとしては最大の有効射程距離を有しているAIM-54だが実戦で使われた事はほとんどなく、米軍で実際使われた際には撃墜に失敗したらしい(公式的には米軍のAIM-54の実戦仕様実績はゼロである)。ただし、イラン空軍のF-14Aで運用されたAIM-54Aは1980年12月2日にMiG-21を1機、1981年1月8日には1発のAIM-54Aで4機編隊のMiG-23のうち3機を巻き込んで撃墜するという戦火を上げ、さらに1981年1月29日にはSu-22を撃墜している。
非常に高価なミサイルで、手元にある資料によると一発当たりの価格は116万ドル、最新型中射程空対空ミサイルAIM-120の価格が46万ドルとなっており、AIM-54一発でAIM-120を2発買ってもおつりが来る事になる。

 F−14を語る上で外せない要素はなんと言っても強力なレーダーと可変翼だ。

 F−14A/Bに搭載されるレーダーAN/AWG−9はそれまでの戦闘機に比べて劇的に強力なものと言ってよく、パルス・ドップラーレーダーとモノパルスを兼ね備えているが、長射程用のパルス・ドップラー捜索モードでは小型目標(レーダー反射面積5平方メートル)を、最大115nm(約210km)で探知可能で、捜索中の追跡(TWS)モードならば同時に24個の空中目標を90nm(約170km)で探知、うち任意の6目標に対してAIM−54フェニックス空対空ミサイルでの攻撃が可能である。最大射程は52nm(約100km)。
 この長距離多目標同時攻撃能力はF−14が初めて実用化させたものである。
 また、パルス・ドップラー単一目標追跡モードでは複数目標への同時攻撃は行う事が出来ない代わりに最大追跡距離が伸び、フェニックスを使って62nm(約120キロ)離れた目標への攻撃が行える。
 さらにパルス単一目標追跡モードでは攻撃可能距離は49nm(約90km)にまで短くなるが、敵機がレーダー・ロック解除・阻止の為、目の前を横切る様に飛行しても(ビーム飛行と呼ばれる)、レーダーが敵機を見失うことが無い。
 AN/AWG−9はAIM−54を運用する為にあると言っても良いぐらいだが、もちろんF−14はAIM−54以外の空対空ミサイルも搭載可能で、AIM−9サイドワインダー、AIM−7スパロー等が運用できる。
 この高性能レーダーは後席のRIO(レーダー迎撃仕官)が主に行い、AIM−54、AIM−7の発射については後席からの発射操作を行う事も出来る。
 意外な話かも知れないが最もポピュラーな空対空ミサイルになったと言えるAIM−120(AMRAAM)は全てのトムキャットにおいて運用されていない。AIM−120の誘導そのものは可能だが、ランチャー等の新規開発が必要で全機退役間近のF−14にその必然性は無かった様である。また、新型サイドワインダーであるAIM−9Xについても使用は想定されていない。

F-14の可変翼は本文中では68度まで後退すると述べているが、実際には75度まで後退出来る。
ただし、75度の後退角は格納時の角度で飛行時にこの角度まで翼は後退しない。

 F−14のもうひとつの大きな特徴、可変翼(VG翼)は20度〜68度の間で稼動する。
 一般的に航空機の翼はきつい後退角がとられていると高い速度が出しやすいが、ゆるい後退角(あるいは直線翼)であれば短距離離着陸がしやすく航続性が上がる。もちろん戦闘機であればどちらの性能も追求したいであろう。
 F−14はマッハプログラム・コンピューター(MSP)を搭載し、翼の後退角を自動的に最適な揚抗比が得られる様に変更させる事により、この矛盾する二つの性能を獲得することに成功した。
 基本的には自動制御の可変翼であるが、故障時のバックアップとして手動操作も可能である。また低域速度においても一部手動による調整が可能だ。

 可変翼は優れた飛行性能を示す一方で、機体構造の複雑化と重量増加を招いてしまう傾向がある。F−14も例に洩れず重い。その重量は約18tで艦載機としてはヘビー級である。ひとまわり大きいロシアの戦闘機Su−27の重量が約16tと言えば、F−14がいかに重い戦闘機なのかよくわかるだろう。
 重量が増加すれば当然、機動飛行を行った際、機体にかかる負担が大きくなるから極端な機動飛行は難しいものとなる。つまり可変翼には空力特性の最適化により機動性を向上させるが、重量増加により機動性を低下させるという全く矛盾した要素をはらむ。ただ、もちろんこの2つを天秤にかけた場合、機動性が向上する側面の方が圧倒的に顕著に表れるだろうし、F−14は艦載機だから幾分重量が増加しても可能な限り低速で着艦出来るシステムを積んだ方が良かったのだろう(着艦衝撃の値は重量×速度の2乗となる)。
 とは言え、やはり重量問題は兵器運用の上でも絶対に無視する事が出来ない点だ。F−14はAIM−54を合計6発装備して離艦出来る事になっているが、仮に6発のAIM−54を全て使用しないまま帰艦すると最大着艦重量をオーバーしてしまうため2発を捨てなくてはいけなくなる。この様な運用はコスト面での負担が大きいのでF−14が搭載可能なAIM−54は実質的には4発と言われている。

赤い四角の中にあるのがグローブベーンである。

 F−14のA型には共通して中央翼前縁に「グローブベーン」と呼ばれる引込み型の小翼があり、音速を超えて風圧中心が後退し、縦安定が強くなると引出されトリム抵抗を減らし、操縦性を改善させる様になっている。グローブベーンは15度開き53度の後退角を成す。

 さて、ここまで解説してきたがF−14という機体は実際は簡単にひとつにくくってしまう事が出来ない。派生型があるからというだけでなく、例えば基本モデルである筈の「F−14A」でもロット毎に極端では無いが仕様に違いが生じてきているからだ。勿論、これはF−14だけに留まる話ではないが、ここでは簡単にその違いをまとめてみたい。

F−14A先行量産型(YF−14A)
ブロック01〜55と呼ばれる初期ロット分の先行量産型で「YF−14A」という呼び名は実は非正式呼称である。可変翼を収める「グローブ」と呼ばれる部分の形状、そして機体によっては機首下面のポッド形状が後の生産型と異なる。

F−14A量産型ブロック65〜(158620〜)
エンジンをTF30−P−412からTF30−P−412Aに変更。

F−14A量産型ブロック70〜(158978〜)
機体尾部の編隊灯位置変更・追加。機体上面の小翼(オーバーウィングフェアリング)の面積を2/3に縮小(一部の先行量産機でもこの仕様はあり、以前のロットの機体でも改修された機体はあり)。

F−14A量産型ブロック80〜(161270〜)
尾部中央部を後方に延長、またこれに伴い尾灯の位置を変更し主翼後退時の視認性を向上。後方フェアリング内にAN/ALE−29チャフ・フレア・ディスペンサー追加。

F−14A量産型ブロック85〜(159588〜)
機関砲のガス抜きが7分割タイプから上下2分割タイプに変更。ブロック65の生産中(158631〜)に実際は導入が始まっていた。

F−14A量産型ブロック90〜(160299〜)
セントラル・エア・データ・コンピュータを換装、主翼フラップ、前縁スラットがコンピューター自動制御化。UHF無線機をAN/ARC−51AからAN/ARC−159に変更。レドーム先端にピトー管追加。以降、この機体がF−14Aの基本形として定まる。

F−14A量産型ブロック95〜(160329〜)
67号機よりエンジンをTF30−P−414に変更、信頼性・整備性を向上。機内消火システム改善。

F−14A量産型ブロック100〜(160562〜)
AN/AWG−9の信頼性向上。フラップ、スラット駆動部性能向上。燃料系統改善。水密構造強化。

F−14A量産型ブロック110最終号機〜(161168〜)
ECM装置をAN/ALQ−100からAN/ALQ−126(後に−126B)に変更。チャフ・フレア・ディスペンサーをAN/ALE−39に変更。

F−14A量産型ブロック125〜(161597〜)
機首下面にTVカメラセット(TCS)が装着可能に変更。当ロット以前の機体についても装着可能な改修が施されたがTVカメラセット自体の数が海軍に133個しか無く、飛行隊同士で使い回しを行っている。

F-14の装備機材の中でもTARPSは有名だ。
TARPSとはTactical Air Reconnaissance Pod System、つまり戦術航空偵察ポッドシステムの事で当初はA-7EとF-14に搭載される予定の装備であったが結局F-14のみに装備可能となった。TARPS操作は後席のRIOの仕事となる。
LA-610と呼ばれるポッドについては重量730kg、全長6.27mでAIM-54、2発分の重量がある。前方からKS-87Bフレームカメラ、KA-99中低高度用パノラミックカメラ、AN/AAD-5赤外線偵察セット、AN/ASQ-172データ表示セット(機体の航法、時間等のデータをフィルムに記録するシステム)、KA-99ウィンチで構成される。TARPS DIと呼ばれるタイプではKS-87Bがデジタルカメラとなっている。最新のTARPS CDでは完全デジタル化されており、E-2Cを利用したデータリンクが可能となった。
ただ結局、デジタルカメラの解像度や伝送方法の問題からデジタルTARPSについては試験的な運用にとどまり最終的にはそれまで使われていた通常のTARPSに戻された。

F−14A(TARPS)
偵察ポッドTARPSを運用する機体で、TARPSが全てのF−14に搭載可能と思われている人もいるかも知れないが実際には改修を施した一部のF−14AとF−14B(後述)、そして全てのF−14D(後述)のみが使用出来る。F−14Aについては71機がTARPS搭載仕様に変更されていると言われているが諸説あり、実際の数ははっきりしない。尚、TARPS装備のF−14はピーピング・トム(覗き屋トム)とも呼ばれる。

F−14A IMI(不採用プラン)
1971年に提案されたものの高価な機体価格により不採用に終わった空軍向け仕様のF−14A。F−106後継機として、胴体下面にコンフォーマルタンクタンクを装備し航続距離を延長。

 F−14Aは変更が続けられ、ブロック140まで生産は行われているが変更の詳細は不明となってる。また、ブロック60、65の機体についてはその後ブロック130相当への改修が施されたとの事である。

 また、1991年5月からはAN/AWG−9にテープ115Bと呼ばれる地上攻撃用プログラムが追加されF−14Aは実質的にマルチロール(多目的攻撃)化した。このプログラムの追加は全F−14Aに施されている。これは1991年1月に勃発した湾岸戦争に触発され導入された感が強いが2002年10月に始まったアフガニスタンへの攻撃において本格的にこのアップグレード機が使用されたのは記憶に新しいところである。

 F−14シリーズは可変翼という構造上、整備性はあまり良くなかったとよく言われるが海軍がこの機体をいたく気に入ったのは間違い無く、ほとんどの空母航空団に2個飛行隊が配備され、F−14シリーズは実に712機も製造された(輸出含む)。

 F−14Aからの発展型はF−14Bとなるがこの機体は詳しく調べていくと少しばかりややこやしい機体である。と、言うのも計画上に存在したF−14Bは2種類ないし3種類存在しているのである。
 F−14の開発計画の中にアップグレードを目論んだ機体は実は初めから存在していた。グラマンではエンジンとレーダーをF−111から流用したVFX−1と、新型のエンジンとレーダーを搭載し戦闘能力を強化したVFX−2という二つのプランを海軍に提示していた。開発を出来るだけ速やかに行わなければならないF−14にとってF−111のシステムを流用した「簡易開発機」ことVFX−1を作る事は当然の選択であった。しかし、F−111に合わせて開発されたシステムをF−14において新規に改めるという考えは確かに不自然なものでは無いし、そういった機体を求める声が上がって来ることも想像に難くない。こうした事情から考えればF−14Bは早い段階で実運用に至るはずであった。

F-14Bは3種類のエンジンが存在したが、これらを全て最初に搭載した機体はYF-14Aの7号機(157986)ことF-14A-30GRである。
現在は博物館入りとなっている。

 一番最初に計画されたF−14Bはエンジンを空軍のF100から海軍版に改めたF401(F401−P−400)に変更し、推量重力比は1以上、旋回半径は40%向上、G旋回率21%向上、行動半径は80%も向上させるものであった。この計画が正式に採用されていれば生産62号機以降はF401エンジンに変更される筈であった。YF−14Aの7号機がエンジン換装(YF401−P−400に変更)を受け1973年9月12日には初飛行し、1975年までに累計33時間の飛行を行ったがベトナム戦争の煽りで予算に問題が浮上しあえなくキャンセルとなった。

 その後、B−1B爆撃機に搭載されたF101を戦闘機版に改良したジェネラルエレクトリック製F101DEFの装備が計画され、これがまたF−14Bの名が与えられる事となっていた。1981年7月14日にはこのエンジンを搭載した改良版F−14Aが初飛行しており、機体性能はF401エンジンに比べA/B推力が僅かに落ち込んだが総合性はYF401を上回り、TF30搭載機に対しては戦闘行動半径は57%、最大離艦重量は25%向上した。この機体は後にF−14Bと呼ばれる事となった機体とほとんど変わりが無くF−14Bの基本モデルと言って良いだろう。

 結局F−14Bが本格的に導入されるのは558号機以降、完全自動制御デジタルエンジン=FADECの概念を取り入れたジェネラルエレクトリックF110−GE−400を搭載した機体からとなり、機体は1986年9月29日に初飛行した。”最初”のF−14Bが初飛行してから実に10年以上の年月が流れていたのである。
 このF110−GE−400を搭載した機体は当初F−14A+と呼ばれていたが1991年5月1日よりF−14Bと正式に呼ばれるようになり、新造38機とA型からの改修32機が生産された。F110−GE−400の搭載によりF−14BはF−14A(TF30−P−414A搭載機)に対し推力がミリタリー、A/B時ともに30%アップしノンアフターバーナーによるカタパルト射出も可能となった。戦闘行動半径は62%向上、高度10670mへの到達時間は61%向上した。ただ、推力自体は先のF101DEF搭載機に対し5%ダウンとなり、代わりに排気煙を減少させた。
 もっとも、この推力増加により空母もアレスティグワイヤーなどの降着システムの改修が必要となった為、F−14AとF−14B(あるいはF−14D)は同じ空母で扱えるとは限らない。
 TF30シリーズのエンジンはF−111に搭載されはじめた頃からコンプレッサーストールが起こりやすく、戦闘機用エンジンの割に急激なスロットル操作を避けなければならないという欠点があった。しかし、このデジタルエンジンはコンピューターを利用したエンジンコンディション管理によりそれは解決され、コンプレッサーストールは皆無になったと言われている。ただし、A型のTF30系も実際には既にデジタル化が完了している為、コンプレッサーストールの問題は解決しているものと見られる。

 推力増加に伴い高速飛行の出番が増えたかと思いきや、海軍はそれまでのF−14Aの運用経験からか超音速飛行の回数はそれほど無いものと判断しF−14Bとその後の発展型のF−14Dからはグローブベーンを廃止し代わりに燃料タンクを装備した。

 F−14Bの搭載電子機材はF−14Aの内容を基本的に引き継いだが、後の改修で火器管制セットをAWG−15Hに、ミッションコンピューターをCP−2213/AWG−9に変更している。また対電子戦装備についても変更が行われF−14Bよりチャフ・フレア・ディスペンサーをALE−47としている。

F-14の中でも人気が高いカラーリングだったVX-4、VX-9の”バンディ1”。真っ黒な機体にプレイボーイのマスコットであるバニーが垂直尾翼に描かれているが、これはF-4時代からマーキングだった。
女性の社会進出に伴いセクシャルハラスメントの対象となり、この為1992年にこのマーキングが排除されたとも言われるが、厳密に言えば1991年に海軍航空隊(テールフック)のメンバーが上官列席のパーティにおいて女性に対し集団で猥褻行為を行い一大スキャンダル(テールフック事件)になった事によるところが大きく、このマーキングは非難のシンボルになってしまった。
余談だがプレイボーイ創刊者ヒュー・ヘフナーの自家用ジエット機であったDC-9も真っ黒な機体の垂直尾翼にバニーを描いてた。もっとも、機内の様子は軍用のF-14に比べれば「当然」豪華かつ破廉恥で、革張りのシートや毛皮のダブルベッドなどが備え付けられており、今なら女性と一部の動物愛護団体の両方からクレームがつきそうな機体だった。

 1996年6月からはF−14Bに対地攻撃能力を追加させLANTIRN(夜間低高度目標指示赤外線)ポッドの搭載が可能となる様、ソフトウェアがアップグレードされ航法装置にGPSの追加も行われた。LANTIRN搭載のF−14については「ボムキャット」と呼ばれる事もある。
 LANTIRNの導入によりF−14はレーザー誘導爆弾によるピンポイント爆撃が可能となっており、夜間や悪天候下での地上攻撃が行える。F−14のLANTIRNポッドはF−15EやF−16の様にAAQ−13航法ポッドとAAQ−14照準ポッドをセットで使っておらず、使用するのはAAQ−14のみである。これはF−14のレーダーが迎撃に特化しており、超低空地形追随飛行能力が無い為である。ただし、F−14のAAQ−14はF−14用のカスタマイズが施してあり、GPSとIMU(Inertial Measurement Unit=管制測定ユニット)を搭載し精密航法が可能となっている。現在ではAAQ−14はAAQ−25(LANTIRN 40K)に変更されており高度40000ftからの爆撃も可能となった。

 F−14Bの次に配備された派生型がF−14Dとなる。「あれ、F−14Cはどうなったんだ?」と疑問を抱く人もいるかも知れなので、F−14Cについても触れておく。
 F−14Cは最初のF−14B計画に付随するものでF401−P−400エンジンを搭載し、電子機材の強化を図ったものでった。艦隊防空と全天候攻撃能力を持つものであったが、海軍はA−6とVFAX計画(F/A−18)に予算を回しF−14Cは無視され、結局F−14DがF−14Cに求められた要求性能を引き継いだ格好となった。

 最終発展型F−14Dが初飛行したのは1990年2月9日。
 この機体はF−14Bに対し、火器管制レーダーをAN/AWG−9から完全デジタルレーダーAN/APG−71に改修したものであった。このレーダーはF−15Eに搭載されているAN/APG−70とAN/AWG−9の複合版で目標識別能力や対電子妨害能力が向上しており処理も高速化、一方でサイズはそれまでのAWG−9より小型化した。レーダーの換装と同時にミッションコンピューターをそれまでの5400B/AWG−9からCP−1700/AYK−14に変更し、また対地攻撃に用いられる火器管制セットはそれまでのAWG−15FからAYQ−15に変更。これらの変更によりレーダーシステム全体の能力は従来の6倍になったと言われている(ただし詳細は不明)。メインウェポンとも言えるAIM−54はこのレーダーに合わせて改良品が搭載される事になり、AIM−54C+としている。

 また、F−14Dには機首の下面にAN/AXX−1TCS(TVカメラセット)とAN/ASS−42IRST(赤外線目標捜索追跡システム)が並べた形で搭載されており、これはF−14Dの概観のひとつの特徴となったいる。

F-14D以降にもいくつもの派生案が出された。
A-6後継として開発されていたA-12がキャンセルされた為F-14D発展計画が持ち上がりまずF-14Dクイックストライクが提案された。この機体はハープーン(対艦ミサイル)、HARM(対レーダーミサイル)、SLAM(対地ミサイル)等が搭載可能でF/A-18E/Fよりも低コストで導入出来るとしていたが採用はされなかった。
その後スーパートムキャット21(ST21)が計画された(上の絵がST21の計画図である)。この機体はエンジンはF110-GE-129の採用とグローブの拡張化によりノンアフターバーナーによるソニッククルーズが可能とされていた。風防部は一体型となり、FLIR(赤外線暗視装置)を標準搭載した機体であったがやはり採用されなかった。しかし懲りずにこれを発展させたアタックスーパートムキャット21(AST21)が提案され、この機体にはとうとう空中航空統制能力と核兵器運用能力までも付与する事が計画された。燃料タンクは主翼の外翼内にまで至っている。
最後にASF-14(先進型攻撃戦闘機)が提案され、これはST21とAST21の複合仕様であった。
結局いずれのプランもF/A-18E/Fよりコストメリットを謳い文句にしていたが、海軍はF-14に既に興味を失っておりF-14D以降の派生型が正式化される事は無かった。

 コクピットは多少であるがグラスコクピット化されており、前席中央と右側に5インチMFD(多目的表示装置)を追加している。ヘッドアップディスプレイ(HUD)はIP−1494/Aとなっているが、これは2枚ガラスパネルに表示を投影するシステムで広視覚のものが取り入れられている。こうした形式のHUDは今では一般的であるが、初めの頃のF−14A/BのHUDはAVA−12垂直デイスプレイ・インジケーター・グループでこれは中央の風防ガラスに直接表示を投影するシステムだった(後にF−14A/Bとも改修が実施され通常のパネル投影式が普及した)。またF−14Dはトムキャットの中で唯一夜間暗視ゴーグル対応機体で、対地攻撃能力はトムキャトシリーズ中最強である。もっともF−14Dの計画当初は対地ミサイルの装備も検討されていたのだが、対地ミサイルやAIM−120といった最新武装の運用はF/A−18の領分となりF−14Dに過剰な予算を回す事は海軍としては考えなかった様である。
 地味だが重要な点としてはF−14Dからは射出座席がGRU−7Aからマーチンベイカー製SJU−17(V)NACES(=海軍乗員共有射出座席)に変更されている。それまで採用されてきた多くの射出座席が脱出時にキャノピー放出不可能だった場合、顔面を保護する覆いが出てくるフェイスカーテン方式を採用していたが、この射出座席ではキャノピーペネトレーターと呼ばれる槍が脱出に先んじてキャノピーを破壊する方式となっている。

 F−14Dは当初400機以上が導入される予定だったが国防省にこの計画が認められず、結局新造37機とF−14Aからの改修18機が生産されただけで3個飛行隊のみ、太平洋艦隊3隻の空母に集中配備されているが2007年(あるいは2008年)には全てのF−14D飛行隊がF/A−18E/Fへの機種変更を実施するものと見られる。

 さて話が前後してしまうが、海外に納められたF−14についても解説していこう。

 F−14の海外商戦はあまり好調なものではなかった。F−14Aが航空自衛隊に主力戦闘機として提案された事もあったが、これは最初からマクドネル・ダグラスのF−15に選定が決まる事が確実視されていたので見込みはもともと薄かった。グラマンは「ANYTIME,BABY...!!」=「いつでもかかって来い!!」と書かれたステッカーをトムキャットのオフィシャルデカールとしていたが、マクドネル・ダグラスはこれを皮肉って「ANYTHING YOU SAY,BABY...!!」=「仰せの通りに致します」というステッカーを作っていた。
 尚、F−15を空自が選定した後にF−14がF−15との模擬空戦で圧勝したとの話流れ、一部の関係者を焦らせた。実際にはこの模擬戦はF−14に圧倒的に有利なシチュエーションで行われたものらしく、F−14がF−15に比べて高いポテンシャルを有する機体とは言えない(ただし、有利なシチュエーションと言ってもAIM−54の使用を想定したものではないらしい)。と言っても、この手の戦闘結果は通常公表されないので圧勝という話そのものがデマと言う人もいる。いずれにしてもこれは額面通りに飲み込む情報では無いというのが今日の大勢の意見であると言える。

 他の国としては西ドイツ、カナダへの売り込みも図られたがセールスは失敗に終わった。

イラン空軍向けのF-14Aはデザート迷彩を施していた。国籍マークはイランに引き渡された後、米軍のものからイラン空軍のものに変更された。イスラム革命後は国王がいなくなってしまった為、機首マーキングのロゴをIIAF(王立イラン空軍)からIRIAF(イスラム共和国イラン空軍)に書き換えた。
イスラム革命後AIM-54がソ連の手に渡りR-33(AA-9)の開発に大きな影響を与えたとも言われており、またF-14Aも1機または数機がソ連製兵器と引き換えに引き渡されたという話が現在でも根強く残っている。
イラン空軍はB-707/747タンカーも保有し、F-14Aは十分に活躍できる機体であると言えたが、1981年1月以降当時のバニサドル大統領がF-14AとAIM-54Aをまとめてアメリカに買い戻させようとし、F-14Aの稼働率が低下したとも言われている。

 F−14が唯一海外セールスに成功したのははイランだけであった。当時、経営難から海軍の支援を受けていたグラマンであったが、このイランからの発注がグラマンの経営を立ち直らせる事となった。

 イスラム革命前の1970年初頭、当時のイラン国王レザー・シャー・パーレビは自国領空を超高速で駆け抜ける偵察機MiG−25Rの存在に苛立ち、1972年にニクソン大統領が訪問した折、新型戦闘機の購入を強く希望し、自ら訪米の上で機体を選定する用意がある事を告げた。この希望に沿える機体はF−14とF−15しか無く、この2機が選定を巡って一騎打ちとなった。
 この国王は飛行機好きで有名であるが、パイロット資格さえも有する彼はアンドリューズ空軍基地に出向きF−14とF−15に試乗を行っている。会社に後が無いグラマンとしてはこのセールスを何が何でも成功させなくてはならず、彼のサイズに合わせた飛行服を準備していたという。そして、デモ飛行の内容も常識を覆すやり方だった。デモ飛行は先にF−15が行い、その内容は実にまっとうなものであったがこれはグラマンの計略だった。F−14は搭載燃料をギリギリまで絞りF−15の半分の滑走で浮揚、フルアフターバーナーとすると観客席頭上30mを背面飛行で通過し、高度300mで発生していた流れの違う風(ウィンド・シア)をつかみ276km/hの低速飛行を見せつけた。このデモ飛行の内容は米連邦航空局規約違反でパイロットと画策したグラマン重役は油を絞られる事となったがパーレビ国王の心は掴みF−14の発注が確定した。

 F−14Aは計80機がイラン空軍に納められる事となり、セールスの規模は20億ドルに達した。訓練と支援を含めて考えれば一機当たり3000万ドルの取引となる。これを受けて米議会はグラマンのF−14計画に対する財政支援を打ち切ったが、グラマンはイランに泣きつき、これに対しイランは国有銀行であったメリ銀行に7500万ドルの融資を命じ、さらに米国金融会社から1億2500万ドルもの融資を引き出しグラマンを支援した。
 勿論、イランに引き渡されたF−14もAIM−54を装備するが、最新鋭機だけでなくその他の最新鋭装備品を他国に売り渡す事はアメリカにとってはあまり愉快な事では無かった。ただ、イランの援助が無ければグラマンの経営は極めて危なかった事ともともとイランがアメリカの上得意先であった事からアメリカとしてはこれに口を挟まず、手厚い恩義を受けたグラマンは完璧なサポート体制を作るべく1000人もの社員にペルシャ語を覚えこませイランに出向させた。引渡し開始初めである1976年には既に27人の教官と300人の技術者、そしてその家族800人がイラン国内に移り住んでいた。1976年1月から月2機のペースでF−14Aは引き渡される事になる。

 イラン空軍のF−14Aは1977年8月には宿敵であるMiG−25Rが領空をマッハ2で飛行しているのを捕捉、ロックオンには成功したものの撃墜には至らなかった。しかしMiG−25Rはこれを期にイランへの領空偵察を取り止めた。

 イランとアメリカの蜜月がF−14を「使える」機体にしていたのは間違い無い事だが、1979年に西欧化に反対するイスラム革命が起こるとイランとアメリカの関係は悪化し、アメリカはイランへのスペア部材の供給を停止、米国人スタッフは全て本国に引き上げてしまった。パーレビ国王は国外に逃亡、国内には引渡しが終了した79機のF−14Aが取り残され80機目は引き渡されなかった。
 しかし1980年からその後8年に及ぶイラン・イラク戦争におけるF−14Aの活躍は戦争全体に渡っての明確な資料は無いがイラン側の発表によれば1980年9月から1981年1月までの短期間に40機のイラク空軍機を撃墜したと報じている。また、強力なAWG−9レーダーを活かしAWACS代わりにも働いたとも噂されている。イラン・イラク戦争を通じてのF−14Aの被撃墜機は6機と言われている。

 アメリカからの部品供給を絶たれたイランのF−14Aの稼働率は右肩下がりで落ち込んだと言われていたし実際稼働率は一時的に大きく落ち込んだ様だが、1983年には部品の効率的な管理方法を編み出し1985年2月11日にはテヘラン上空を25機以上のF−14Aを飛行させた。最大48機が稼動状態にあったとも言われている。
 また1997年からは撃ち尽くしてしまったAIM−54Aに代わり、ホーク地対空ミサイルを装備させた。無茶な話にしか思えないが、これで地対空と空対空ミサイルを兼用させたのだという。1999年に公表されたところでは20機に通常爆弾運用能力を付与する計画があった。イランとしてはさらにこの計画を進め、エンジンをSu−27と同じAL−31F、ロシア製フェイズド・アレイ・レーダーの搭載などを考えていららしいが進捗の程は不明だ。
 ただ、イランのF−14は現在ではほとんどが飛行不能状態という説が根強く、エアショーに展示される機体を見る限りでもとても飛行可能な状態では無いと言われている。イランがF−14をまだ活用出来るか否かはイランの国情を知り得ないと判断が難しい。

 尚、イラン向けF−14Aは引き渡されなかった80機目が実は完成していたため、この1機のF−14A(ビューローナンバー160378)はアメリカ海軍に引き渡され、NF−14Aとして運用され、2000年8月にはリタイアしている。

F-14部隊はそのほとんどがF/A-18F運用部隊へ転換され、それも近年中には終了する。単座型のF/A-18Eを転換機に選択している部隊が少ないのは転換・運用の容易さもあるであろうが、それ以上にF-14で後席を務めたRIO(レーダー迎撃仕官)が仕事にあぶれてしまう所が大きいとも言われている。
F/A-18Fへの変換に伴い後席担当者はRIOからWSO(兵器システム仕官)に名前が変わるが基本的な仕事は変わらない。

 F−14の機体価格は約3800万ドル(おそらくA型)であるが、最新型マルチロール艦載機であるF/A−18E/Fの価格が3500万ドルと言われている上に、整備製の上でもコストパフォーマンスが高い機体とは言えない。しかし、長距離ミサイル迎撃を補う機体は米海軍において未だにF−14以外に存在しない。
 とはいえ、イージス艦等の登場により艦隊防衛のシステムに変化が生じている以上F−14の活躍の幅は無くなっていく一方で、機体寿命が尽きていっているF−14は全機が2010年迄に引退する事が決まっており、実戦部隊のF/A−18E/Fへの機種変換は2008年で全て完了してしまう事になっている。
 冒頭に書いた日本に駐留していたF−14部隊だが、96年1月12日をもってフリーランサーズは閉隊。もっとも機体自体は同年12月12日に5機をアメリカ本土に帰還させ、5機をシスタースコードロンであるVF−154へ引き渡してしまった為、閉隊式では既に実質的に機体を保有していなかった。この為、閉隊式ではVF−154から元VF−21所属機を借り出し尾翼マーキングをVF−21に変更し参加させるというなんとも珍妙な事をやっている。5機を譲り受けたVF−154も先頃日本での役目を終え、2003年9月24日にはアメリカ本土にあるNASオシアナへ11機を帰還させ日本のF−14は全て消えた。フライアブルなF−14を今後日本で見られる可能性はほぼ無いと言って良いだろう。
 VF−154の後任は既に2003年11月13日に厚木へ展開している。VFA−102”ダイアモンドバックス”がそれで最新鋭機F/A−18Fを使用機材としている。

 

 

●F−14A DATA●

全幅:19.54m(後退角20度)〜10.15m(後退角75度)
全長:19.1m
全高:4.88m
主翼面積:52.5平方m
空虚重量:18191kg
離陸重量:26632kg(クリーン時)
加過最大離陸重量:33724kg
実用上昇限度:15240m
発動機:プラット&ホイットニー TF30−P−412A/−414A(ドライ54.92kN A/B92.97kN)×2
最大速度:1342kt(水平速度)
航続距離:1735nm(機内燃料のみ)
戦闘行動半径:665nm(CAP)
武装:固定兵装M61A1・20mmバルカン砲(弾数675発)、兵器最大機外搭載量6577kg
乗員:2
初飛行:1970.12.21

 

 

●F−14D DATA●

全幅:19.54m(後退角20度)〜10.15m(後退角75度)
全長:19.1m
全高:4.88m
主翼面積:52.5平方m
空虚重量:18951kg
離陸重量:29072kg(クリーン時)
加過最大離陸重量:33724kg
実用上昇限度:16150m
発動機:ジェネラルエレクトリック F110−GE−400(ドライ62.27kN A/B102.75kN)×2
最大速度:1078kt(水平速度)
航続距離:1910nm(フェリー時)
戦闘行動半径:600nm〜1075nm(CAP)
武装:固定兵装M61A1・20mmバルカン砲(弾数675発)、兵器最大機外搭載量6577kg
乗員:2
初飛行:1990.2.9

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